2023.03.31
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記念碑
高校1年生の頃からずっと日記を書いています。日記というより自由帳の落書きのようなイメージで、毎日の授業の退屈凌ぎに始めたものでした。そのとき見たものや思い付いたことをがむしゃらに記録して、ページが文字や絵で埋め尽くしていくことで何らかを成し遂げた気になったり充足感を得たりしていたのでしょう。誰にも見せられない、極めて個人的なアウトプット。日記ってそういうものだとずっとおもっています。
その日記帳は『ひみつノート』とテキトウに名付けられました。いま手元にあるもので23冊目です。大学を出て仕事を始めてからは書くペースが落ちましたし、とりわけコロナ禍突入以後は引きこもり体質に拍車がかかり「何かがある日」のほうが珍しくなり、書かずにはいられない「何か」なんて滅多になくなってしまいました。それでも、「やーめっぴ」とはならない。しっかり書き続けている。
先にちらと触れたとおり、ぼくは日記とはごく個人的なものであり他人にとっては至極どうでもいいものだとおもっている。誰かに読まれることが前提の日記なんて、読んでほしいと考えながら書く日記なんて、「良い振り放き」のジブンが残るだけで価値がないのではとすら考えていた。素肌のままのジブンをノートに閉じ込めることで客観視できるジブンがあり、そこに価値があるのだと。
そう信じて日記を書き続けて分かったことのひとつに「(仮令日々綽々生きていようが)人は知らん間に更新されるらしい」ということがあった。学生時代のような常に感じ動く心がなくなった今でも日記を徒然なるままに書き続けるのは、ジブンの変化を見逃したくないからなのだろう。